千人同心道・忍宿散歩 H.29.1.11(水)
新年早々、行田商工センターをスタートに忍宿の散策を行いました。
千人同心道は、八王子・千人町を出発し東松山、行田、館林を通って栃木県佐野の天明宿に至る。さらに例幣使街道、 日光西街道(壬生道)、 日光街道を通って日光東照宮に至る。
行田兵衛尉館跡 :成田氏六代助広の三男助忠は源義経に従い一の谷の合戦(1184)の功により行田なの地を賜り此処に館を造り行田氏を名乗り承久三年(1221年)宇治川合戦に行田兵衛尉が功を立てたと吾妻鏡第二十五巻に出ている。

(旧NTT行田支店東隅)
家老 鳥居強右衛門居宅跡 :天正三年(1575)三河長篠城救援の軍使として大任を果たし磔死(はりつけ)した鳥居強右衛門の十二代商近は松平家家老五百石としてここを忍の居宅とした。十三代商次が維新の官軍との交渉に家名をあげた。城西桃林寺に六基の墓石あり。

(清水機工敷地内東側)
忍警察署跡 :成田警察署が行田分署と合併してこの地に出来たのは明治十年 七五二坪建坪九十五坪とある。この地は近世歌匠といわれた黒沢翁満の住居跡で明治十二年郡制がしかれ、二九六坪を北埼玉郡役所とした。この一帯桜の名所であった。

(商工センター西側)
田山花袋ゆかりの料亭 :田舎教師五に「角に柳の湯といふ湯屋があって其れと対して綺麗な女中のゐる入口が見える」とある料亭がここ魚七である。西の道路は水量の多い川で柳の湯の大きな柳 忍警察 町役場の桜花は名所であった。

(商工センター東側)
代官所跡 :忍一の五番地北東の一角は忍藩秩父山方代官と御蔵役代官の詰所で山方代官は服部 松岡 野間等十一人 普請御蔵役は篠田 別当等九人であった。役宅は東町裏にあって代官町といっていた。代官所は後に奥御医師筆頭岸田宗泉の診療所となった。

(北谷愛宕神社入口)
行田学校文教場跡 :下町愛宕社に行田本町 大工町文教場を八幡社に。この地に本町文教場が出来たのは明治六年、明治九年新町法性寺に行田文教場を新設するまで行田町人子弟の教場 寺子屋が文教場になったので行田町人子弟教育の発生の地といえる。

(旧小林時計店駐車場西側)
御高札場跡 :上町仲町を行田町の中心として大整備を完成したのは阿部正充時代(1748~1780)である。そしてここに他所に誇る立派な高札場を設け、忍藩の総ての里程の基点とした。明治三年高札場は廃止され取り壊された。

(武蔵野銀行南側)
御本陣跡 :代々町年寄の八代樋口太郎三郎が本陣を仰せつかったのは安永四年(1775)弘化三年(1845)初午の大火後 立派な本陣を造ったが明治三年廃止となり、そば屋松月庵となった明治四年出火し東隣の脇本陣と共に焼失した。忍は城下町と宿場町の両方を兼ねていた。

(埼玉信用金庫行田支店西隅)
長徳寺跡 :愛宕神社別当長徳寺として門前市をなす。文政六年桑名より移封の松平忠僥候 ここで大名行列を整えて忍城初入場。明治五年行田学校、明治二十一年登記所、明治四十年頃取り壊されて現在の道が出来た。

(下町愛宕神社境内)
行田馬車鉄道 :明治十六年七月上野熊谷間に汽車が開通し、年とともに乗客増加し行田吹上間不便し明治三十一年レールを敷き馬車鉄道株式会社を設立。ここを本社発着場とし本町、大町、駒形鎌、鎌塚、吹上駅と結ぶ 大正十年頃までの風物誌。

(大長寺より北側の道路脇)
長野口御門跡 :行田町の北東の固めとして長野口御門は船着き場としての繁栄と共に重要さを増し高札場、番所もでき人の出入りに賑わった御門の北は小沼堂ともう一つの島で一帯は大きな沼であり菖蒲の名所であった。

(行田馬車鉄道先を右に折れすぐ)
行田船着き場跡 :忍城に対して下町で星川の船着き場として栄えたことが四百年前の記録に既にある。幕末には番所、高札場まで出来る賑わいで江戸から水路があり明治十九年館林に行啓の折の荷物がここで荷揚げされた記録もある。

(長野口御門隣)
大露仏と毘沙門堂跡 :大長寺の大仏と親しまれた露座の銅像阿弥陀如来があったが昭和十九年供出してしまった。本寺は藩主阿部豊後守九代百八十四年間忍の菩提寺であった。寛文七年(1667)忠秋が建立した毘沙門堂も腐朽して今は奥日光金精峠にその面影をとどめている。

(大長寺正門入って右)
忍城升形城門跡 :忍四番地一角は忍城大手門外升形城門地内であり大手門を渡り、北の南面の大手門を入り西に行き、また西面の門があって内行田通りに出たのである。大手門の守りは固かった。複雑な角道になっていた。

(元森乳業の門前:明治時代に牧場があった)
大手御門跡 :南北二百m東西五十mの升形門内の桜松から望む大手門の偉容は壮観であった。北谷御門からこの先まで続く石垣の上の白壁の塀大手門を渡り、ここに南面して立つ大手門は老中、五摂家十万石にふさわしい忍城の正門であった。

(忍二丁目住宅地内)
*大沢 俊吉 著 忍城史跡碑より引用
長井写真館(旧フジイ写真館) :この木造洋風の写真館は、大正時代頃に当初は「フジイ写真館」の店舗兼住宅として建てられ、後に長井写真館が建物を譲り受けて現在に至っています。内部もモダンで洒落たデザインで、大正時代頃の雰囲気を残しているとのこと。

旧忍町信用組合 :大正12年(1923年)竣工の木造2階建て下見板張りで、元々は忍町信用組合店舗。ルネッサンス風の木造建築。

忍宿散策の後、そば店で昼食を取り、早めの解散となりました。


