例幣使街道・倉賀野宿散歩 H.28.10.5(水)
数日前までは台風18号が関東地方を通過する天気予報でしたがh、予報より次第に西寄りに進み関東地方にはほとんど影響が無くなりました。曇り空ではありますが、暑くもなく、寒くもなく本日の倉賀野宿散歩はまずまずの天気となりました。倉賀野宿散歩の参加者8人は、午前9時に教育文化センター「みらい」に集合し、事前打ち合わせの後、車2台に分乗し出発。
予備知識
倉賀野宿(くらがのしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて12番目の宿場である。 江戸時代に中山道が整備され、倉賀野宿には本陣一つ、脇本陣が二つ置かれ、日光例幣使街道と中山道への分岐点が設けられた。分岐点の間にある”閻魔堂”には、今も当時のままの常夜灯と道しるべがある。
教育文化センター「みらい」で出発前の打ち合わせ

国道17号線を走り高崎線倉賀野駅に到着。倉賀野駅の駅員に観光案内所の場所を尋ねところ、駅の近くには案内所もパンプレットも置いていないとのことだったので駅入り口の案内板と駅通りの案内看板で名所・旧跡の地図を確認して散歩をスタート。
高崎線の倉賀野駅

案内板

倉賀野宿には本陣一、脇本陣が二つ置かれていたが、そのうちの一つ 「須賀脇本陣跡」 が下の写真である。建物は明治36年に再建されたものだが、右側の門は宿場時代のものだそうだ。 現在、修理中で見学できませんでした。
須賀脇本陣跡

須賀脇本陣跡の道路反対側にはもう一軒の「脇本陣跡碑」がある。
脇本陣跡碑

高札場跡
江戸時代、往来の多い所に、法令、禁令などを掲示した場所です。札には法度・掟・触(ふれ)・罪人の罪状などが記されたそうです。宿場の中央・追分・橋詰(はしづめ)など、人の目につく所に置かれました。


樅の木
高札場のうしろにおもしろい案内板が立っている。一本の木が立っていて、伝説が伝説が残っている。・・・安政三年(1855)宿は大火に見舞われ、焼け野が原の化した。しかし只1軒焼け残った旧家があった。どこからか大天狗が現れ防火に努めたからという。家では古峯様を信仰していたので古峯の天狗が助けたのだそうな。この樅の木はその伝説に由来すると言う。・・・・樅の木は枯れてしまい植え替えられた。 高札場後ろの「樅の木」には次のような伝説が。安政2年のこと、倉賀野宿に大火災が発生し宿場全部を焼き尽くすほどの勢い。

本陣跡
スーパー、「ベイシアマート」の駐車場にひっそりと石碑が立っており、ここが倉賀野の本陣があったところ。


御伝馬人馬継立場跡
スーパーの先、倉賀野駅前交差点に倉賀野仲町山車倉という建物があり、その前に人馬継立場跡の石碑が立つ。ここが問屋場があった跡であろう。

倉賀野城は烏川左岸の河岸段丘上に立地し、烏川側は絶壁になっている。いかにも城を思わせるような場所ですが、現在の城跡は横幅が狭い縦長の公園の中にあり、旧城跡は今は住宅街になってしまったのだろうか。公園内には、倉賀野城の説明板が2枚あった。
倉賀野城跡碑

倉賀野城址説明版


倉賀野城跡碑の前で記念撮影

街道の町並み
当時を再現している建物が散在しており、昔の街並みの賑わいを彷彿とさせる。


中山道、例幣使街道の追分
中山道は京から上がってくると、ここで右江戸へ、左日光へと分かれる。赤い閻魔堂と常夜燈と道しるべが立っている。常夜燈は道標の役目も果たし、文化十一年(1814)に例幣使道五科宿の高砂屋文之助が建てたもの。

常夜灯
常夜灯は文化11年(1814)に五料宿の高砂屋分之介(たかさごやぶんのすけ)こと高橋光賢(たかはしみつたか)が建立しました。高橋光賢は無頼放蕩の罪滅ぼしのために常夜灯の建設を考えたと言われ、江戸、信州、京都まで寄金を集めたといいます。


道しるべ
西面「日光道」、南面「中山道」、北面に「文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書(たかはしかねじょしょ)」とあります。道標(みちしるべ)は年代不明です。「従是 右江戸道 左日光道(これより みぎえどみち ひだりにっこうみち)」と刻まれています。

閻魔堂
倉賀野宿の東側に位置し、中山道と日光例弊使街道の分岐点にあり、お堂の真中には閻魔大王が鎮座しています。正式名称は江戸時代までの呼称で阿弥陀堂。閻魔大王は地蔵菩薩の化身と言われ、信仰すれば地獄に落ちず、救われると言われています。
毎年8月16日には例大祭が行われ、夜には数珠を皆で回し、鉦(かね)を叩きながら念仏を唱える百万遍が行われます。 天井絵を拝見することもできます。
閻魔堂は老朽化して改築されたばかりのようで、まだ木材の香りが残っていました。


倉賀野散策は閻魔堂で終了。車に分乗して例幣使街道を走り途中、純手打そば処「与志乃 玉村店」で昼食をとりました。

昼食後、伊勢崎市の柴崎本陣跡まで例幣使街道をドライブ。
玉村宿
江戸時代初期、幕府の代官伊那備前守忠次によって新田が開発され集落が形成された玉村は、例幣使街道の開通によって街道一の宿場町へと発展。4月11日に中山道・倉賀野を通過した例幣使一行は夕方玉村宿に到着し一泊。翌日の早朝には次ぎの宿泊地である天明宿目指して出発している。今の玉村宿は幾度かの大火で全焼したため往時の面影はあまり残っていない。
玉村八幡宮拝殿
和泉屋の隣に朱に塗られた鳥居がそびえているが、ここは鎌倉時代の建久6年(1195)、源頼朝公が鎌倉・鶴岡八幡宮より勧請建立したと伝わる。

木島本陣跡歌碑
本陣建物は慶応4年(1868)の大火で焼失してしまったが、帰路も中山道を利用した例幣使参議有長の歌碑は無事であった。


五料関所
五料の渡しは東西交通の要衝として、戦国期には那波氏の家臣でこの付近を領していた石倉氏が、関所を設けて関銭を取っていたといわれています。日光例幣街道唯一の関所であった五料関所は、天保3年から恒例となった日光東照宮への奉幣使の通路として、日光例幣使の通行と舟運の取締りが特別任務として課せられました。五料関所跡には、かつての玉村宿方面からの門の礎石と関所用の井戸が残り、玉村町の史跡に指定されています。


柴宿本陣跡
柴宿は例幣使道3番目の宿場で、関根家が本陣を務めた。近世の武家住宅に店舗的要素を加えた一種独特の機能を有する建物で、文化12年(1815年)に再建された。例幣使道に残る数少ない本陣遺構であったが、昭和46年(1971年)に主屋、昭和47年に長屋が解体された。


倉賀野宿の古い歴史遺産がそのまま残っているところは少ないですが、要所には説明版や碑が設置されているほか古い町並みを再現する努力がなされてる。欲を言えばもう少し観光案内を充実された方が良いと感じました。
今回、倉賀野宿を中心に散策しましたが、その後、柴宿(伊勢崎)まで例幣使街道を車で移動。途中、旧跡に立ち寄りながら帰路についた。時々、雨がポツポツ降る天候でしたが、大崩れしなかったため倉賀野宿散歩~例幣使街道散歩を無事に終了することができました。

