中山道・桶川宿歩き H.28.7.6(水)

新メンバー加入後初めての歴史探訪は中山道桶川宿散歩となりました。
<予備知識>
中山道は江戸時代の五街道の一つ江戸日本橋から京都三条大橋まで六十九の宿場があり全長約五百三十km(約百三十五里)埼玉県には、九つの(蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄)宿場がありました。桶川宿は、江戸から十里の距離に位置した六番目の宿。本陣1件、脇本陣2件、旅籠三十六件の宿場町。「中山道もの」と言われた良質の麦や、紅花の集散地として栄え、後に紅花は「桶川臙脂」の名で全国に知られるようになりました。

AM9:00に行田市教育文化センター「みらい」に集合。車2台に分乗して出発。10時過ぎに現地到着。中山道沿いのキリスト教会の広い駐車場に車を置かせてもらって散歩に出発。

中山道桶川宿散歩ルートの確認

川越街道と分かれる交差点に、史跡木戸跡の石柱がある。江戸側の木戸のため、「南の木戸」や「下の木戸」と呼ばれている。

木戸跡下

木戸跡上

藤倉家の鍾馗様
昭和6年(1931)に建てられ、魔除けと同時に火除けとして屋根に鍾馗様の像が祀られている。

武村旅館
武村旅館は、宿場当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物です。江戸時代末期の天保年間(1840ころ)には三十六軒の旅籠があったとされ、当時の間取りは現在もほぼ引き継がれています。

武村旅館
武村旅館は、宿場当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物です。江戸時代末期の天保年間(1840ころ)には三十六軒の旅籠があったとされ、当時の間取りは現在もほぼ引き継がれています。

矢部家(蔵造りの商家)
中山道に面する矢部家は、木半の屋号で知られた穀物問屋で、かつて江戸時代に紅花商人としても活躍していました。矢部家は、中山道に面した土蔵造りの「店蔵」とその奥へ続く「住居部」と「文庫蔵」で構成されます。店蔵は矢部家第6代当主矢部五三郎氏によって明治38年に建てられ、棟札には、川越の「亀屋」建築に係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶、石工らが名を連ねています。桶川の歴史を物語る桶川宿の「顔」ともいうべき立派な建物です。

島村家住宅土蔵
天保7年(1836)の建築と伝えられ、桁行6間、梁間3間の総3階建ての土蔵で、市内に現存する古い建物。島村家は、桶川宿場内の穀物問屋で、屋根の両端にある鬼板には、屋号の木嶋屋の「木」の字が刻まれています。天保の飢餓に際しては、飢餓に苦しむ人々に仕事を与えるため建てられたことから 「お助け蔵」と言い伝えられている。

五街道の説明


桶川宿本陣遺構
本陣とは、参勤交代の際、大名が使用する宿場に設置された宿泊所で、桶川宿本陣は、加賀百万石の前田家の宿所とされたほか、水戸藩主徳川斉昭(徳川15代将軍慶喜の父)も利用したとされています。また、文久元年(1861)には江戸に向かう皇女和宮が宿泊したことでも知られています。 現在は、一般の民家となっていますので、建物の公開は行っていません。

中山道宿場館桶川市観光協会
観光協会を訪れ観光案内パンフレットや紅花の種をいただくとともに中山道に関する歴史と桶川宿の歴史を説明する約15分のビデオ放映をしていただいた。その後、版画の体験や二階で開催していた切り絵の展示会も見学。素晴らしい作品に一同関心しきりでした。観光協会の方の心のこもったおもてなしに感謝です。

ビデオ鑑賞

版画の体験

桶川市出身の本木雅弘(もっくん)の書が展示されていた。

一里塚跡

松山以奈り道の道しるべ
当時の桶川宿北端に位置し、現在の東松山市に通じる松山道が中山道から分かれていました。背の高い角柱の正面に「松山以奈り道」と刻まれ、江戸日本橋にあった小田原町の魚市場の人たちによって、天保7年(1836)に建てられたもので、碑文の中には「魚」の字が図案化されています。

稲荷神社
桶川宿周辺で紅花を扱っていた商人たちが、安政4年(1857)に南蔵院不動堂へ寄進されたとされる2基の石燈籠が拝殿前に今も残る(明治2年(1869)に現在地へ移設したもの)。また、稲荷神社拝殿前には、長さ1.25m、幅0.76m、重さ610Kg、日本一の力石があり、江戸一番の力持ちと評判の力士 三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたと伝えられています。

稲荷神社で桶川宿散歩が終了し帰路につきました。

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